top of page

玉山金山について

スペース超新星
23171546_l.jpg

138億年前、ビッグバンと共に誕生した宇宙。
それでは金(Au)はどこからきたのでしょうか。

超新星爆発と言われる星の壮絶な最期の一瞬から放たれる中性子星。
その質量は他の元素よりはるかに重く、その星の合体により
重元素である金やプラチナはつくられると言われています。

金の比重は19.32で金属の中でも
かなり比重が大きいことで知られています。
元素記号79はその意味をなし、

金はとてつもなく貴重な金属なのです。

ここ玉山金山は、4億5千年前の地殻変動と共に氷上花崗岩の縁にそってできたと言われています。
「竹駒神社の由緒」によりますと、734年(天平6年)玉山金山で砂金が発見とあります。

日本最初に陸奥国の涌谷から黄金900両が献上されたとされる749年の48年前の701年(大宝元年)に
朝廷では金山に詳しい鉱山師を陸奥国に派遣して黄金探しをしていることが、
日本の正史「続日本紀」に記されています。

「時空を超えた一塊の輝き」は、その金の輝きが

奈良時代、聖武天皇が発願し飢饉や疫病で苦しむ人々に希望の光を当てたと言われています。

24496823_m.jpg
25378217_m.jpg

また、平泉・中尊寺「金色堂」は前九年の役・

後三年の役と争いが続いたみちのくに平和と浄土を

求め建立されたとも言われています。

ここで採れた砂金が
奈良の大仏や平泉の金色堂を支えていたのです。

玉山金山の歴史絵巻

玉山金山(たまやまきんざん)は、岩手県陸前高田市竹駒で金を産出した鉱山である。マルコ・ポーロの『東方見聞録』にある「東方に国あり、その名ジパングという。その国で特に驚くべきことは金の多いことである。その金は掘れども尽きず。」の主体が当山であるとされる。

玉山金山は、氷上花崗岩中の金が異常濃集した熱水鉱脈を鉱石として採掘し、同時に美しい水晶を大量に産出したため、水晶(玉)の出る山という意味の「玉山」と名付けられたとされる。玉山金山は「陸奥の金」として日本で初めて金が発見されたと伝えられる金山のひとつで、天平の時代にはすでに砂金のかたちで金を産出していたとされる。その産金は奈良東大寺の大仏に使われたほか、奥州藤原氏の黄金文化を支え、中尊寺金色堂にその産金量の膨大さが見て取れる。藤原清衡が宋に10万5000両もの金を贈り、朝廷に年々四貫目の金を朝貢して殿上人を羨望せしめたといわれる。平重盛が唐の育王山に寄贈した3500両の金も当山産出とされる。戦国時代には豊臣秀吉が直轄として金山奉行を配し、その後は伊達氏の所有となり伊達政宗以降三代の栄華の源となったほか、慶長遣欧使節に要する費用はすべて当山の産金によるものといわれたが、江戸幕府に没収されることを恐れて坑口その他を破壊し廃坑に見せかけたとされる。千人坑は当山最盛期の主要坑道で、一時は「玉千軒余」と呼ばれ大いに繁栄したが1673年頃から次第に産金量が減少し、黄金のベコ(牛)とともに坑夫千人が落盤の下敷きとなって死んだという「オソトキ」(飯炊きの女)の伝説を残しながら、廃坑のみが現在も残されている。和右ェ門坑は1611年に小野寺源太郎が3ヶ月で140万両の金を掘り出したと言われており、当山で最も多く金を産出した坑道とされる。1904年(明治37年)には日本銀行副総裁の高橋是清が、当山を抵当にして日露戦争の軍資金に英米から8億円の借入をしている。
令和元年5月20日(月)に「みちのくGOLD浪漫―黄金の国ジパング、産金はじまりの地をたどる―」の構成文化財のひとつとして日本遺産に認定された。

参考文献:玉山金山史

玉山金山史_edited.jpg

霊泉「玉乃湯」に掲げられている玉山金山史

bottom of page